「七條さんに会いたいと思っていたんです!!」
そう伝えてくれた女性が、そう伝えてくれた女性も亡くなった。
「彼女も逝ってしまったか」
彼女の死をあっさりと受け入れる自分。これは、これまで数え切れないほど身近な人が命を絶ったから。「昔の自分はどこにもいないんだな」とこのように感じた。
もうおそい、手おくれだ。
自分が他人の死を受け入れられるようになった過程をうまくまとめられない、が、うまくまとめられないなりに死を受け入れられるようになった過程をここに書き記すことにする。
「オーバードーズ」
「過食嘔吐」
「自殺未遂」
「自殺配信」
Xのアカウントを所持していた頃、こうしたワードが飛び交う環境に身を置き、高野悦子、南条あやや二階堂奥歯を崇拝するかたがたと関わった。
処方薬のシートの画像を添え「今から死にます」とつぶやくかた、缶チューハイと市販薬の画像、高所からアスファルトの歩道を見下ろす画像や、練炭の画像などを投稿するかたをたくさん見てきた。
それらを閲覧することが平気だった(瀉血の動画を視聴していた時、真赤な血が排水溝にながれる様をぼんやりと眺めながら、その方の苦悩がその赤い泪に凝縮されているのだなあと思っていた)し、そのかたがそれらを通して言わんとすることがわかる、こんな気もしていた。
「『自分』を削らないと生きられないんです!!」
そのようなメッセージをそうしたカタチで発信し、そうしたカタチでしかSOSを発信を発信できないそのあやうさがそのかたを死に導くのだなあとの危機感をそのかたに対して抱いた。
体はいきている、だけれども心はこわれ、死にかかっているかたがたと関わるうちに「生きる」ことと「死ぬ」ことの境目があいまいになり、生死の距離感がバグった。その結果「死ぬ」ことに対する恐怖心がうすれてしまった。
「死ぬ」ことに対する恐怖心がうすれ「死」に対する耐性がついてしまった。
例えば、ある日を境につぶやきがぱたっと止まった、生前に交流があったかたのアカウントを目にした時。かなしきかな、動じなくなってしまう、良くも悪くもそれを受け止められる。
「彼/彼女はメンタルを随分と病んでいたし、家庭環境がどうしようもないくらい荒んでいることをつぶやいていたからなあ」とそのかたの現状を冷静に分析した上で「ああ、逝ってしまったんだ。逝ってしまったから、更新されないのだなあ」と。
「さようなら」
「死にます」
こうした言葉を何度耳にしたのだろうか。どれだけの人がこうした言葉を発し、命を絶ったのだろうか。
「死」とは本来厳かなものだ。しかし、こうした環境に身も心もそめ上げられた私にとっての「死」は厳かなものではなく、軽薄なものなのだ。
「死」の過剰摂取は人を強くする一方で人を冷淡にしてしまう。
ところで、ひとつ、どうしようもない事例がある。
とあるかたがたがホテルに集まった。そのホテルで開催された薬物のパーティー、それに参加した女性が市販薬を過剰摂取して昏睡状態に陥った。が、参加者は彼女を放置。のち、彼女は搬送先の病院で死亡が確認された。
彼女と私は生前に親交があった。彼女は東京大学の大学院を修了した研究職の女性であり、仕事の悩みをXに投稿していた。仕事の悩みから酒と薬におぼれ、そうしたかたがたと関わった末、死に至った。
その後、参加者は逮捕された。以降、不起訴処分で釈放されたメンバーのうちの1人は自死(との噂)、もう1人は日常的に薬物を過剰摂取していたことが原因で植物状態と化した。
命を削った何人もの人間が、いる。
書ききれない、もう。
なので、書かない。
人間は、動物は、死ぬ。
そう、死ぬ、あっけなく。
体はいきている、だけれども心はこわれ、死にかかっている繊細なかたがたとこれまで関わった。生死の境目をさまよう方と関わる中で「生きる」ことと「死ぬ」ことの境目があいまいになり、生死の距離感がバグった。その結果「死ぬ」ことに対する恐怖心がうすれてしまった。
もう変わらないし、変えられない、いまさら。
もうおそい、手おくれだ。